ふつうの梨

emu-maharis2006-09-15

多少小ぶり、お味は、新鮮で まぁまぁ。


この梨は、息子Aと彼女と彼女のお姉さんの3歳ベイビーの三人で 近隣にある梨園で もいできたもの。「お土産!」と 10個ばかり頂いた。この梨を味わいながら思った。息子Aと彼女、この普通の梨のようだ。


「普通」を平凡と捉え微温湯に浸っているのを嫌う人もいる。けれど普通を維持できる事は、幸せな事なのかも知れない。息子Aは、今そんな「普通」に包まれて 「安心」を得ている。


息子Aが、自然体で居られるようになったのは、今の年上の彼女との出会いからだ。其れまでの彼は、何かに追われ ともすればいつでも 引きずり降ろされるギリギリのポジションで ものを考える余裕さえなかったように思える。それは あたしの育て方に原因がある。


普通じゃダメなのよ。普通というのは まだまだ努力が足らないって意味なの。普通なら大勢居るのよ。普通に甘んじていると 大人になった時、きっと後悔する。こんな言葉で彼を責めた事がある。無論、これは、成績表に対しての事。親としては、数字で表される普通からの脱皮をして欲しい。


努力の成果が現れたときは、歯の浮くようなセリフで褒めた。頑張りが続いたら 欲しいものを買ってあげると約束した。或る時、マラソンのアンカーに選ばれた。走る事が苦手な彼は 毎日塾の帰りに バスに乗らず走って帰る。時間のない彼にとって 唯一の練習の場だったのだろう。


ところが当日の朝、38度の熱が出た。アンカーは 通常の二倍を走らなくてはならない。しかもチームの勝敗がかかっている。あたしは 慌てて止めた。しかし彼は、走った。そして走りぬいた。チームの皆は、彼に拍手を送った。努力の上に栄光がある。まさに其れを学べた瞬間だったに違いない。


でも あたしは あの走る姿を目で追いながら、もう良い!もう良いからリタイアして!と心から願っていた。彼も何所かで やめたかったに違いない。しかし 走るのをやめる事は、許されない・・・あたしが彼にそうさせた気がした。


たまに見せる父親の顔と期待の詰まった言葉は、彼にプレッシャーを与えた。夫は、負けず嫌いの努力家である。そんな夫に彼は似ているのだと思っていたが 彼は きっとあたし似だ。自分をみてみろ。自分は 競争が大嫌いじゃないか。背中をぐいぐいと押される事が大嫌いじゃないか・・・・。


彼が幼いときから求めていのは、「普通」であり 必要なものは、普通の中から生まれる「穏やかさ」だったのかもしれない。高校二年から大学入学まで 彼は別の意味で普通を保てなかった。様々な出来事が彼を阻んだ。成績は あっという間に下位に落ち、自分の力量や限界を知った。遅れて大学生になった息子Aは、付き合い始めたばかりの彼女に訊いた。


「結婚相手は・・・出世して欲しいでしょ?」
本音をポロリと吐き出した息子Aに彼女は、こう答えたそうだ。
「普通でいいよ。」
彼女のこの言葉は、あても無く続く長い道の途中で足踏みをしている息子Aのその足をはじめて休まさせたに違いない。